建物・モニュメント

仮設校舎

に、B棟とC棟の耐震補強工事が行われました。
工事中は、校舎の代わりとなる仮設校舎が建てられていました。

工事の発端は、以前に建てられた、耐震基準に満たない学校施設を
全て耐震化するという、兵庫県教育委員会の計画です。
ちなみに、A棟はに建てられたため、工事の対象ではありません。

仮設校舎の外観 仮設校舎の教室

格技場兼生徒集会室棟

格技場兼生徒集会室棟が建設されました。
当時、黎明館を南隣に建てて連結し、更にグラウンドを見渡せる
ベランダを設置する予定でしたが、最終的に中止となりました。
しかし、格技場棟自体は当初の予定通りに建設されたため、その形跡が残っています。

格技場兼生徒集会室棟の外観 格技場兼生徒集会室棟の外観

仮設の渡り廊下

B棟の西半分が建てられました。
当時は昇降口棟が無く、
B棟とC棟を繋ぐ通路として
仮設の渡り廊下が設置されていました。
B14教室とC棟廊下にある扉は
その名残です。

C棟の外観

槌賀記念室

槌賀研究室が、教え子の寄付金により建てられました。
その後、に開始した、木造校舎を鉄筋コンクリート造に改築する事業の中で
研究室は取り壊され、に槌賀記念室に改称してA棟3階へ移転しました。

槌賀記念室には、槌賀安平氏が採集、発見した
貝類、コケ類などの標本が陳列されています。
標本や資料の劣化を防ぐために、文化祭当日にのみ開放されます。

槌賀記念室 槌賀記念室のそばにある胸像

槌賀安平先生ハ三原郡南淡町賀集ニ生ル
幼ニシテ穎悟エイゴ今ヤ生物学界ノ権威タルノミナラズツトニ大教育家ノ令名アリ
広島髙等師範学校ヲ卒業シ教育ニ従事スルヤ
独特ノ教授法ニヨリ左ノモットーヲ以テ終始一貫ス

  1. 一、勉メテ自ラ研究セヨ
  2. 一、精密ニ観察実験セヨ
  3. 一、正確ニ思考セヨ

三重奈良兵庫ノ三県ニ於テ先生ノ教ヲ受ケシ者ヲ始メ
知名ノ士ハ其ノ髙徳ヲ仰ギ其ノ学殖ヲ慕ヒ鴻恩コウオンニ報ゼントシ
有志モ亦大イニ之ニ賛同シ永ク先生ノ功績ヲ顕彰セントシテ
ココニ槌賀研究室ヲ建築ストイフコトシカ

 兵庫県三原髙等学校
寿像 刻 南淡町 賀集 北川定平

若い力

若い力

三原高校は、南あわじ市出身の
彫刻家である菊川晋久のぶひさ氏に、
16回生卒業記念の彫刻を依頼しました。
当時、やり投げで名を馳せていたため、
やり投げの彫刻の予定でしたが、
槍が折れる恐れがあるとして
砲丸投げの彫刻になりました。

そして、に完成し、体育館前に建立しました。
若い力と名付けられたこの彫刻は、「武」や「動」の象徴であり、
若い力によって躍進を続ける三原高校を表しています。

清い心

清い心

、17回生の卒業記念品代と
防火貯水槽建設の予算を使い、防火用水を
兼ねた噴水と庭園が完成しました。
旧木造校舎の防火貯水槽を兼ねたプール
現在のC棟付近にあったものの、
体育館まで遠いため別に建設されました。

清い心と名付けられたこの庭園は、「文」や「静」の象徴であり、
当時の学年主任の人格を表しています。
そして、若い力と併せて「静と動」や「文武両道」を象徴しています。

寄宿舎

、三原高校が校地の移転を開始しました。
そして、旧校地の建物を、寄宿舎や職員寮に改装していきました。
主に南淡、灘、沼島地区の生徒が入寮していました。

ピークを迎えたの寄宿舎生は44名、
寄宿舎に収容できないため下宿している生徒は28名でした。
また、寄宿舎の食堂を利用する生徒や教員は相当数いました。

しかし、に建物の老朽化と
入寮者の減少により寄宿舎は廃止され、
建物は取り壊されました。
現在、寄宿舎(旧三原高校)跡には
石碑が立っています。

寄宿舎跡

巌島神社

かつて三原高校の南隣に神社がありました。
、校舎拡張工事のため三原健康広場の西隣に移築されました。
現在、神社の跡地に特別教室棟(C棟)があります。

巌島神社の鳥居 巌島神社の拝殿