天明の縄騒動

天明の縄騒動について

天明の縄騒動は、に淡路で起きた百姓一揆です。
二十人余りいたといわれる指導者を中心に農民が、三悪新法
(縄御趣法、増米法、木綿会所法)を取り消すように徳島藩に強訴しました。

そして、命令は撤回されましたが、半年後に七人の中心人物が逮捕され、
に才蔵と清左衛門の二人が打ち首にされました。

大宮寺の裏には処刑された二人を祀る天明志士紀念碑が立っています。
また、には碑の前で慰霊祭が行われます。

大宮寺
大宮寺裏
天明志士紀念碑
天明志士之碑
阿弥陀堂(才蔵庵)
阿弥陀堂 通称才蔵庵の記
才蔵の墓
清左衛門の墓
楠之助の墓
才蔵地蔵
才蔵と清左衛門の墓
金剛寺(佐尾寺)

天明志士之碑の碑文

天眀志士之碑
淡州淡州に有兩志士両の志士有り、曰才蔵才蔵と曰い、曰清左衛門清左衛門と曰う、共に三原郡三原郡廣田邨広田村の人也人なり。其の代衆衆に代わりて死刑死刑せられしは、事、係天眀二年中天明二年中に係る、在距今凡百十七年前今を距ること凡そ百十七年前に在り。州民州民談其事其の事を談る者、厯〻歴々として可𢴃焉拠るべし。夫れ、淡之州淡の州、四面四面環海海を環らして風潮風潮の阻む所、自ずから成一國一国を成せり。當時当時、受治阿波領主蜂須賀氏治を阿波領主蜂須賀氏に受く。領主領主特に遺國老仁尾氏国老仁尾氏を遣わし、代わって執政政を執り不親問民疾親しく民の疾苦を問わず、故に上下壅塞上下壅塞す。姦臣汚吏姦臣汚吏、得势勢を得て㺯権権を弄し、新たに徴繩稅縄税を徴す。蓋し繩稅縄税は他藩他藩に無也無き所なり。重斂苛令重斂苛令、民、不耐其誅求其の誅求に耐えず、百方百方哀訴哀訴するも執政執政不聴聴かず。兩志士両志士憤慨憤慨して陰かに結黨党を結ぶ、唱義廣田八幡義を広田八幡祠前に唱え、蹶然蹶然として舉事事を挙ぐ。楠之助楠之助、貞平貞平及び力士力士楓山楓山以下以下𢿘千人数千人從焉焉に従う。領主領主聞之之を聞き、遽に令監吏慰諭監吏をして慰諭せしめ、且つ詰其由其の由を詰る、二人二人前み対えて日く、臣䓁「臣等斯舉斯の挙、非敢構民碞敢て民岩を構えるに非ず。也賤商平六賤商平六なる者、与君下吏阪東某髙田某䓁君下の吏阪東某、高田某等と、攀楥攀援して成势勢を成し以酒色酒色を以て蠱惑執政執政を蠱惑し聚斂梧克聚斂梧克無不至至らざる無し、実に殄瘁矣殄瘁せり。臣䓁臣等分、君家君家にごとし有緩急緩急有らば雖隕首首を隕とすと雖も不辭也辞せざるなり。今、彼䓁彼等託名公賦名を公賦に託して縦に營私利私利を営みて不知厭く所を知らず。臣䓁臣等今日今日挙、万、不得已也已を得ざるなり。唯だ裁之之を裁されよ」と、監吏監吏具状状を具し、以て聞す。領主領主大いに駭き、急いで遺士師士師を遣わし、折獄獄を折って糺執政以下罪執政以下の罪を糾し、𢘻悉く廢新法新法を廃し蠲重斂重斂を蠲き政を復舊旧に復す。且つ欲無問黨民罪党民の罪を問うこと無からんと欲す。而れども刑吏刑吏已に法を正す、刑兩志士梟首両志士を梟首に刑す。力士力士楓山楓山窃に廋其首其の首を廋して塟之之を葬る、扶才蔵遺子文之助才蔵の遺子文之助を扶け、貞平貞平も亦、扶清左子林作清左の子、林作を扶け以て経理其後其の後を経理す。楠之助楠之助竟に死獄中獄中に死せり。州民州民皆、寃之之を冤みとす、兩志士両志士墓、春秋春秋の祭祀不懈懈らず。然れども歳月歳月久し。或いは不知其その所在を知らざらん。扵是乎是に於てか州民州民の慕其義其の義を慕う百二十有百二十有二人二人相謀相謀りて檄國中国中に檄し募資資を募り、䢖石石を建て表之之を表す。題して曰天眀志士之碑天明志士の碑と曰う碑は在廣田邨廣林山上広田村広林山上に在り。父老父老来りて請銘于余銘を余に請う。慨然慨然として銘之之に銘して曰く、鼎鑊「鼎鑊如飴飴のごとし。殺身身を殺して成仁仁を成す。勿侮黔首黔首を侮る勿かれ。孰れか非王臣王臣に非ざらんや。」
眀治三十一年十一月天長節 正三位勲三䓁伯爵板垣退助撰 四位勲三䓁巖谷修書