三原高校の歴史

三原高校の創立

に開設された不動りつ裁縫塾がきっかけとなり、
、旧三原郡広田村中筋に私立真如裁縫女学校が創立しました。
本科2年制、研究科1年制で、特色は寄宿舎生活と師弟同行の教育でした。

、校地を旧三原郡市村青木に移し、
真如実科高等女学校、真如高等女学校と改称した後、
に組合立三原高等女学校に改称します。

当時は戦時中のため、修学旅行や卒業アルバムの製造が中止されたり、
学徒動員により動員先で卒業式が行われることがありました。

三原高校の躍進

、男女共学化に伴って兵庫県立三原高等学校へ改称し、
、校地が現在地である旧市村円行寺に移転しました。
旧校地についてはこちらをご覧ください。

部活動では、陸上競技部や卓球部などが全国大会や国体に出場し
優勝するといった、めまぐるしい活躍を見せました。
特に弁論部は、からにかけて、
全国高校弁論大会で通算26回の優勝を果たしています。

また勉強面では、模試の結果や大学合格者の貼り出しなどで
生徒にやる気を出させ、進学実績を上げていきました。
そして、校区外からの生徒の流入や第一次ベビーブームの影響で、
には生徒定員がピークを迎え、1500名になりました。

六月問題

しかし、に「六月問題」と呼ばれる学園紛争が起こります。
一部の生徒が持っていた教員達に対する不満が爆発し、
30名ほどの教員を壇上に上げ、それぞれの教員への非難や追及が行われました。

それから、旧来の教育体制や教育課程に批判が移り、
毎日授業時間を短縮して、教員達と話し合う時間が設けられました。

定期考査のボイコット、教員の懲戒免職当時の生徒会長の自殺にまで
至ったこの問題は、校則や教育のゆがみに対する不満や、
当時の学生運動の風潮が原因となり起きたと言われています。

志知高校との発展的統合

その後、生徒の自覚や教員の結束、育友会や同窓会などの協力もあり、
生徒に指摘された問題を解消し、「六月問題」で乱れた秩序を回復していきました。

そして、部活動では変わらず躍進を続けましたが、
生徒数の減少により、志知高校と統合、に閉校しました。
現在は、後身の淡路三原高校へ、伝統が脈々と受け継がれています。

教員の懲戒処分

処分理由

からまでの間において、第一学年一組および
同学年二組の地理Bの科目について正規の教育計画に基づく授業を行わず、

またからまでの間、行なわれた第一学年および
第二学年の考査において、四日間にわたり、試験監督を行なわないなど
しばしば職務命令に従わず、職務上の義務に違反し、職務を怠る行為があった。

処分の取り消しを求める裁判

懲戒免職となった教員は、処分の取り消しを求めて訴訟を起こしましたが、
棄却されました。(一審判決① 一審判決② 二審判決① 二審判決②

生徒会長追悼植樹

生徒会長の自殺を偲ぶタイサンボク 植樹の説明板
故 ◯◯◯◯君追悼植樹

故◯◯◯◯君は本校に入学し
この年もちあがった学園民主化運動のけぶる中生徒会長に選任されました。

彼は持前のファイトとねばりでこの問題にぶつかっていきましたが
会長という責任があるいは思慮深い性格が追いつめる結果となったのか
彼は私達の前から消え去って行きました。

なおこの木は◯◯君を偲び警鐘として残された悩みを打ち明ける事の出来る
環境造り私達は目指し彼の一周忌に当る日に植えました。